三木 清 人生 論 ノート。 三木清「孤独について」(『人生論ノート』所収)

「幸福は表現的なものである」 〜『人生論ノート』より|Hiroshi SAKAI|note

自然的な情念の爆發はむしろ習慣を破るものであり、デカダンスとは反對のものである。 著者の今まで読んできた本の中には、色々な哲学者や哲学の本の名前が出てきます。 執着する何ものもないといった虚無の心では人間はなかなか死ねないのではないか。 また、国内でも、少しでも政府に対して批判的な態度を示すと、「非国民」「反日」といったレッテルをはられて攻撃されてしまうような風潮が、ネット上を中心にたちこめていました。 この著書は、三木の死後に出版されたものですが、戦後、学問に飢えた若者が次々と手に取り、ベストセラーになりました。 そんな三木の将来を期待し、岩波書店の支援で、ドイツに留学することになりました。

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『人生論ノート』(三木清)は、立川談志も驚くような本質をつく名言だらけ|らこすけ@読書|note

人の期待について 期待は他人の行為を拘束する魔術的な力をもっている。 そこに現代のあらゆる超越的な考へ方の意義がある。 その行動によって孤独になることもある。 日本において、ごく普通の国民が、政治や経済、宗教や人生について気安く学ぶことができるようになったのは、この文庫文化が根付いてこそでした。 怒は啓示の一つの形式である。 だから古典を復興しようとしたルネサンスは古典的であつたのではなく、むしろ浪漫的であつたのである。

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Eテレ「100分de名著 人生論ノート・三木清 第1回〜真の幸福とは何か〜」を観て。“幸福感”と“幸福”は違うらしい。

個人、民族、世界は相互に否定的に対立している、しかも否定は媒介であり、否定の媒介によって具体的現実的になるというのが弁証法の論理である」(『哲学入門』より引用) 『哲学入門』は西田哲学入門だという評もあります。 最上の死は豫め考へられなかつた死である、と彼は書いてゐる。 」 (『パスカルにおける人間研究』より引用) 人間の内側には個性という、尽きることのない豊かな湧水があるという信念は、ここでは姿を消しています。 しかし虚無は人間の條件である。 幸福について考えないことは現代人の特徴である。

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《明白に分かる》三木清とは

しかるに今では神は人間的にされてゐる、デーモンもまた人間的なものにされてゐる。 執着するものがあるから死に切れないということは、執着するものがあるから死ねるということである。 三木は、専門家の間では、パスカルの研究に関しては大変評価されましたが、パスカルも三木も、日本ではまだまだ名前が知られていなかったのです。 世論をコントロールし、みんなが同じ方向を向き過ぎているのは恐ろしいこと。 紙幣はフィクショナルなものである。

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『人生論ノート』(三木清)は、立川談志も驚くような本質をつく名言だらけ|らこすけ@読書|note

そして、1929年、32歳の時、農業経済学者・東畑精一の妹・東畑喜美子という女性と結婚します。 そう思った言葉。 そういえば、かつてパラサイト・シングルといった用語をつくり、その後もフリーターや家族社会学について独自の見解を発表していた山田昌弘が、2004年に『希望格差社会』(筑摩書房)で、ネシーの「苦労する免疫」仮説をうまくとりあげていたことを思い出した。 それは参加者の感想を聞かないとわからないが、ディレクターには小森康仁に当たってもらい、1週間前にラフプランをつくり、前日は映像・音声・照明のリハーサルもした。 それができる人はディレッタントとは区別される創造的な芸術家である。 ブント用語、全共闘用語というものもあった。

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「幸福は表現的なものである」 〜『人生論ノート』より|Hiroshi SAKAI|note

それが愛の意味である。 モンテーニュの最大の智慧は懷疑において節度があるといふことであつた。 深く執着するものがある者は、死後自分の歸つてゆくべきところをもつてゐる。 生命は抽象的な法則でなく、單なる關係でも、關係の和でも積でもなく、生命は形であり、しかるにかやうな世界においては形といふものは考へられないからである。 デカダンスは情念の特殊な習慣である。

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